誰と何を話しても無駄って思うときもあるけれど、
とにかく今この人と話がしたいって時があって、
それは相手がその気になっていなくても、話したい。
何でも話したいけど、で? って言われる。
で? ではなく、だまってきいてほしい。あきれて笑ってきいてほしい。
でも我慢して言わないでいる。
きいてほしいのに言えないのはなんでか。
なんでかって思ってたら、多分、山崎ナオコーラの『母ではなくて、親になる』の中にその答えがあった。
今、私は育児エッセイを書いているが、読者の育児経験の有無によって、文章の読みが変わるということはない、と思っている。もし、ただ経験と照らし合わせるためだけに文章というものが存在するのならば、文章を書くのはなんとつまらない行為だろう。
(中略)
でも、出産してない人にも出産の話を、私はしたい。
(中略)
相手の経験の有無で話題を変える必要なんてない、とやっぱり思うのだ。
(山崎ナオコーラの『母ではなくて、親になる』より)
言いたい。きいてほしい。
共感してほしいのではない。理解してほしいのではない。
どっちかっていうと、僕のアーバンブルーズへの貢献か。
この人と話をすることで、解き放たれたり、爆発が起きたりするんじゃないかって楽しみ。
そしてきかせてほしい。
わたしの体験していない話をききたい。
わたしが体験したことでも、その体験で他の人がどう思ったかききたい。
同じ映画をみた人が、同じような感想を言ったらうれしいけど、違う感想を言ってもうれしい。
同じ方向を見ている人が、もしかして自分と違うものが見えてるのだとしたらわくわくする。
なんならわくわくした気持ちのままでいて、ずっとあとで、あのときどうだった? ってきけたら、ずっとわくわくできていいな。
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